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復興支援フェア [日常]

客先の温浴施設様やスポーツクラブ様から「震災から1年、復興支援で被災地域の物産品を売りたい」とのリクエストが寄せられることが多くなった。

そこで商工会ルートでそのような物産品のリクエストをかけてみたが、残念ながら企画に沿うアイテムの調達が難しいと言う。名産品で調達可能なものはもちろんあるのだが、震災の影響がなかったところのものになってしまうそうだ。またコンビニなど大型流通資本からの「震災1周年」がらみのフェア企画の需要により、これから生産可能なロットが先々まで押さえられていることも多いらしい。

一方、肝心の被災地域では事業所や工場がダメージを受けたままで、物産品の供給見通しがついていないと言う。

つまり実態として、なんちゃってな復興支援フェアになってしまうということだ。

客先には事情を説明し、ご了承いただきました。



大地震がきた!④ [日常]

3月12日、テレビはあり得ないような災害の映像を流し続けている。福島原発関連の情報が不気味である。母の無事は妻が叔母さんの夫・Oさん経由で確認。叔母さんと一緒にいることがわかった。ひとまずほっとする。

仙台に妻子を残し、単身東京で働いている友人のKが、レンタカーを借りてこれから仙台に向かうと言う。止めた方がいいよ、気持ちはわかるけれど・・・わが家にいた人たち(妻、義母、私)が代わる代わる電話で引き止めるが、言うことを聞かない。説得する妻はもう涙声だ。いくらアドリブが強い男でも、早晩どこかで足止めを喰らうぞ、福島を通るんでしょ?放射能洩れの状況は政府が発表している通りとは限らないぞ?大丈夫なのかよ。

危機管理上テレビをつけているが、恐ろしい津波の映像と、繰り返しの同じ死亡者のテロップと、暗いトーンのACの広告etc.で気が滅入る。夕方娘と近所の公園に遊びに出る、早く帰ってきなさいよと妻。

公園には3人の女子中学生(?)と保育園の友だちのNちゃんファミリーがいた。娘はまずNちゃんとシーソーをして遊んだ。女子中学生グループに頼んで、占拠されてたブランコのうちひとつを空けてもらった。そのブランコにお待ちかねだった娘とNちゃんは交互に乗って遊んだ。娘より1クラス上のNちゃんはひざの曲げ具合でブランコを揺らすコツを知っている。娘はそこまで上手ではなく、後ろから押してやって揺れを大きくしてやる。Kから電話がきた。「青ちゃん、テレビ見てる?爆発したよ。俺が見てんのはNHKだけど、1号機の建物が前の状態と明らかに違うんだよ、どう見ても爆発したようだ」

すわ、メルトダウン!!放射能拡散!!再臨界!!
非現実のような現実に引き戻されたが、この現実は今までの現実とは違う現実だ。本当は実家の秋田に帰る予定だったというNちゃんのパパに、福島の原発が爆発したと言う未確認情報がありますと伝えると、こちらは無邪気な子どもたちのブランコ遊びを切り上げさせると、気もそぞろに帰宅した。

家では深刻な表情の妻が早く入りなさいと言って迎える。
ママ友からの転送メールで、コスモ石油の火災で有害物質が雨になって降るから、傘や雨カッパを持ち歩き、肌に付着しないようにという注意喚起のメールである。
「Yちゃんパパと相談して、カッパを買ってきなさい」と妻に言われるまま、雨カッパを大人・子ども分あわせ5着買ってくる。

夜、福島第一原発の爆発的事象について、枝野官房長官からの記者発表があった。今回の爆発は原子炉の格納容器が爆発したのではなく、格納容器のさらに外を覆っているコンクリートと鉄筋の建屋の壁が崩壊したと言う説明がなされた。放射性物質のモニタリング数値も爆発的事象のあとに むしろ減少しているとの説明があった。事態は未だ深刻であることには違いはないが、最悪の炉心溶融(メルトダウン)は起っていないことが一応、政府から発表されたわけだ。

いつもと違う気分で一日が過ぎていった。


大地震がきた!③ [日常]

3月12日、義父が妻の会社まで車で迎えに行き、首尾よく戻ってきた。妻は夜通し余震の揺れに驚かされ眠れないまま朝を迎えたようだ。お風呂のお湯を入れておいたが、妻は入る気力もなく、横になった。しかし余震はまだあり、携帯電話の地震予知通知の警告音やら実際の揺れやらで、神経が高ぶったまま寝つけないようだ。
テレビでは三陸沖で大津波が発生して、家屋や車が波に押し流されるすさまじい様を映し出していた。死者の数が出ているが、テレビが写す陸前高田市や宮古市の津波の様子だけでも、こんな数では収まらないだろう、まだまだ死者の数は増えるだろう、と思わざるをえない。

一方、東京電力福島第一原子力発電所では、地震によって緊急炉心冷却装置と非常電源とが故障するトラブルが発生したと言う。政府は原子力災害対策特別措置法に基づき、原発周辺3kmの住民の避難指示を出した。これは法律制定以来はじめての発動になると言う。なにか嫌なニュースだ。




大地震がきた!② [日常]

3月11日、18時過ぎに保育園に着く。一足先に義母も到着していた。万一を考えて同時に向かってくれていたのだ。地震が起きたとき、園児たちは先生の言うことをよく聞いて、机の下にちゃんと隠れたそうだ。

3人で帰宅すると、マンションの入口に安全停止したガスの復旧方法の説明の張り紙があった。一度6階のわが家に入ったあと、ガスの復旧を試みようとしたが、説明通りのランプ点灯が見られない。再度階段をおりて入口の張り紙を読み直し、念のために携帯で撮影をし、部屋に戻ろうとすると、運転停止しているエレベータの前で立ち往生している車椅子の住民がいた。「手伝いましょう」まず、車椅子を先にお住まいの5階まで運び上げたあと、再度おりて今度は本人をおぶって5階まで階段を上がる。意外としんどい。

戻ると義母と妻の携帯が繋がったらしく、状況確認と今後の対応策を話し合っていた。両親が帰宅困難となっているご近所の園児Yちゃんを、臨時で引き受けてくれている別の園児宅まで迎えにいって、わが家で預かるという話がママさん間でついたそうで(というのも、わが家の方がヨリご近所なのだ)、私に迎えに行くようにとの妻からの命令であった。

そこに会社から(妻の実家に)帰宅後、(妻つまり娘の家=わが家に)緊急にかけつけた義父。すぐさま義母と一緒に「迎えに行ってくる」と自転車に乗って出て行った。妻の実家は伝統的に(?)日常生活における危機管理に長けている。こういうときの対応は非常に速いのだ。その間私はガスの復旧操作に再度取り組み、ガスは開通した。

妻からメールで、電車が止まっていて帰宅困難のため、勤め先のビルで会社の人たちと泊まることにしたと連絡あり。このため今夜は義母が泊り込みで娘と娘のお友だち・Yちゃんの面倒を見てくれることになった。子供たちにとっても私にとっても心強い。義母におにぎりなどすぐに食べられる夕食をつくってもらう。子供たちはご飯を食べた後、仲良く無邪気に遊んでいる。お友だち同士、一緒にお泊りということがワクワクするようだ。

ただ夜も遅くなり、依然両親が帰ってこないことで、Yちゃんの方が表情を曇らせるようになった。地震→電車が止まっている→夜がふける・・・子どもなりの想像力が働くのだろうか「ママがしんぱい」と口にするようになった。「大丈夫よ、ママ帰ってくるから」義母が応える。Yちゃんはお茶を要望したり、絵本の読み聞かせを要望したりして何とか自分を落ち着かせようとけなげにがんばっている。でも眠りたいけど眠れない・・・そんな状態が続き、12時近くまで眠らなかった。

真夜中過ぎにYちゃんのお母さんから連絡があり、電車が動き始めたのでこれから帰るとのこと。
結局1時半頃にお母さんが着いて、Yちゃんをお母さんに無事引き渡すことができたのだった。




大地震がきた! [日常]

2011年3月11日14時46分、都内の客先温浴施設で打合せをしていたところ激しい揺れがきた。揺れはだんだん大きくなる、半端じゃない、テラスの足湯からざぶん、ざぶんとお湯が飛び出す。陳列棚の商品が床にぶちまけられる。揺れが収まったかと思った矢先、また大揺れが襲いかかる。入浴客はそそくさと帰り、15時過ぎに施設は営業終了。店長が従業員、テナントスタッフ、清掃スタッフを招集して明日以降の対応について緊急ミーティングをもった後、テナントスタッフは散会、店長以下施設の社員は居残った。

私とわがスタッフの森は担当テナントであるカフェスタッフに明日の営業態勢の確認と指示を行ったあと、施設を森の車で出た。これだけの揺れにもかかわらず、自動車教習所の講習の車が普通に走っているのが不思議な感じである。

この時点で事態はどのくらいの深刻さなのかはわからない。とにかく大都心で大地震が起こったということだ。ただ地震が起きた時、「この瞬間、どこかで一瞬にして千人単位の人命が失われたのではないか」といういやな予感があった。テレビで報道されていた直近のニュージーランド地震の印象もあって、都心の古い雑居ビルが倒壊していないかが最大の心配であった。幸い妻や義父母の無事はメールのやりとりで確認がとれた。途中で車から降ろしてもらい、私は保育園にいる娘の安全確保をめざし、街道の道をひた歩いた。倒壊家屋や火災は見受けられないようだ。



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