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いっちゃんの見果てぬ夢 ー つとむちゃんを送る言葉 [いい話]

政界の黄門様こと渡辺恒三元民主党最高顧問が亡くなられた。
自民党時代は竹下派七奉行の一人として国務大臣の要職を歴任する政治家だったから、時代の流れを感じてしまう。存命の七奉行はついに小沢一郎議員ただ一人になってしまったよ。

今回は小沢議員が3年前、七奉行の一人で、政治改革の盟友だった羽田孜元首相の葬儀で詠んだ弔辞を紹介します。

(以下、転載)

つとむちゃん。
今日はいつもの二人だけの時のように、そう呼ばせてください。

昭和44年の初当選の同期の友であり、また同志であった二人は、子どものように「つとむちゃん」「いっちゃん」と呼び合って過ごしてきました。それから半世紀近く経ちましたが、僕の脳裏にある君は穏やかな笑みを浮かべ、物おじもせず部屋に入ってきたつとむちゃんであり、緊張して座っていた僕は、しばらく前の大学院の学生だった田舎者のいっちゃんでした。

その二人の出会いは、政治の師である田中角栄先生の事務所が対面の場でありました。

つとむちゃん。
君は父上が病に襲われ、父が急逝した僕と同様、思いもよらず政治の世界に足を踏み入れることになりました。田中先生に「戸別訪問3万軒、みんなと握手をしろ」。そう命じられ、来る日も来る日も選挙区を歩き回って、ようやく当選を果たした二人に、先生は同期当選の名を一人一人挙げて、「県議会議員、県知事、中央官庁の役人等々、みんな政治や行政のプロだが、おまえたち二人はズブの素人だ。他の同期生と一緒になってぼんぼんとその日を過ごしていたら、おまえたちの将来はない。命がけで勉強しろ。がんばれ。」そう叱咤激励されたことを今でもはっきり覚えています。

僕はともあれ、つとむちゃんは終生、その教えを守りました。
郵政の問題であれ、農政であれ、知らないことは知らないとはっきり言い、三人歩めば必ず我が師ありとばかりに謙虚に教えを請い、ついには誰からも一目置かれる存在になりました。君の周りにはいつも人があふれ、笑いに満ちていました。来る者は拒まず、去る者はそっと見送り、再び来る者は何もなかったかのように迎える包容力によるものだと思います。

僕は生来の口べたで、無用な敵をつくったり、軋轢を生んだりすることがしばしばありました。
そのたびにつとむちゃん、君は「いっちゃんはシャイで人見知りなだけなんだ」と、取りなしてくれていたと聞いております。百術は一誠にしかず。まさにこの言葉を実践された政治人生でありました。

二人の政治生活には山もあり谷もありましたが、肝心な時にはいつも一緒にいました。恩師である田中先生の誤解を生んだ、そして先生の逆鱗に触れながら、田中派の中に竹下氏を中心とした新しい勉強会も結成いたしました。しかしまたその後、政治の改革をめぐる基本的な理念、考え方の相違から、自民党を離党し、新党を結成しました。節目になるといつも二人でとことん話し合いました。失敗すればもう政治生命はないだろう、という時になっても、つとむちゃん、君はそれこそ結婚式の仲人でも引き受けるような調子で「分かった、分かった、一緒にやろうや」と言ってくれました。正直に言って、「この問題の深刻さが本当に分かっているのだろうか」と、いぶかったこともありました。つとむちゃん。君はいつでも、分かっていました。分かった上で、自分の信じる道、自分の思う道を選んだに違いありません。

先月の28日、突然の悲報を聞き、ご自宅にうかがいました。君を苦しめた病気の気配などかけらもなく、大事を成し遂げた人だけが持つ、穏やかで満足感に満ちたお顔でした。君が身命を賭し、全身全霊をかたむけた二大政党制は、いったん芽が吹きかけたように見えましたが、わずか2年余りで潰えてしまいました。僕もその責任を痛感しております。

本当に多くの先輩・同僚が旅立ちました。そして今、君もかつての仲間たちと一緒になって、さぞかしにぎやかな歓談の場の中心にいることだと思います。僕もいずれはその輪の中に入れて頂きたいと思います。

ただ、今日の政界は、一強多弱と言われるような状況下にあります。君はいなくなってしまいましたが、残ったみんなで力を合わせ、もう一度政権交代を実現し、「この国に政権交代可能な議会制民主主義を定着させることができた。我々が歩んできた道に間違いはなかった」と、その時につとむちゃんに報告ができるようにしたいと思います。それだけを楽しみに、僕は君のいない、さびしい政界の中ですが、何としても踏ん張ってがんばろうと固く心に決めております。

つとむちゃん。安らかにお休みください。そして、これからも日本の政治を、私たちを、天上から見守っていてください。さようなら。

転載元 つとむちゃんのいないさびしい政界で…小沢一郎氏弔辞 (朝日新聞デジタル)

時は流れ、今日の政治の荒廃・劣化状況を見るにつけ、ますます政治不信は募る。

しかし、志なくしては人間、生きている意味がない。
政治家も同様である。

何の因果か、親父が政治家であったため、たまたま政治の道に足を踏み入れた二人の若者が、稀代の国民政治家の薫陶を受け、政治改革の旗を立てて共に歩むことになる・・・この歩み自体は尊く、かけがえのないものだ。

Where there is a will,there is a way. 私はいっちゃんの見果てぬ夢を応援しています。



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絆の物語-斎藤隆・故郷に捧げるマウンド [いい話]

いやぁ、いいドキュメンタリーだった。
NHK-BS1の『日本人メジャーリーガーの群像-斎藤隆・故郷に捧げるマウンド』のことです。

2011年、斎藤隆は大リーグ6年目を新天地ミルウォーキー・ブルワーズで迎えることになった。

斎藤と言えば横浜ベイスターズのエースとして活躍していたが、2003年以降は故障続きで精彩を欠いた。そんな状態から2006年大リーグに挑戦し、1球入魂の投球スタイルでセットアッパーやクローザーとして活躍する。大復活を果たしたと言えよう。41歳の今も現役バリバリ、中年たちの希望の星だ。

彼は仙台市出身で父親の地元は東松島市である。

3月11日の東日本大震災、海の向こうから被災した故郷を心配する息子に、両親は「大丈夫だぁ」

お前はそこに留まって野球にしっかり取り組んでくれという気持ちからの言葉であった。

斎藤投手はこの時ほど大丈夫が大丈夫でない大丈夫はなかったと語っていた。

そんな中でメジャーリーグが開幕。4月4日のブレーブス戦では1イニング2本の本塁打を浴びる。この日、斎藤投手は左太ももを痛めてしまった。さらに4月下旬には左わき腹を痛めて故障者リスト入り。かつてない故障の連続に気持ちは萎え、引退が脳裏をかすめる。

そんなとき、斎藤投手は自分のブログへ寄せられたファンや地元の被災者たちからのコメントに励まされる。コメントの中には23年前、高校野球の宮城県大会の準決勝で対戦した気仙沼高校野球部の芳賀秀行さんからのものがあった。

芳賀さんは現在、気仙沼でガソリンスタンドを経営するかたわら、気仙沼市立津谷中学校で野球部を指導している。子どもたちは親を失った者も多く、時折暗い表情を見せている。そんな子どもたちを斎藤投手の活躍で励ましてほしいという想いもあり、芳賀さんは斎藤投手のブログへコメントしたのだ。

「今回の震災で気仙沼は甚大な被害を受けました。漁業・観光の街なので、主要な工場や宿はすべて沿岸沿いにあり、復旧まではかなりの時間がかかりそうです。とはいえ、下を向いてばかりでは未来はないので、ガンガン前を向いて地域一丸で頑張っていきます!復興した際は必ず(絶対)気仙沼に来て下さい。『俺が接待すっから~!』(笑) これからも野球を通じて、みんなに元気・勇気・根気・・・・等いろんな‘気’を与えて下さいね!なんたって気仙沼の‘気’だから!!!」
(→斎藤隆ブログより)

故郷のために力になりたい・・・故郷の人たちやファンに励まされた斎藤投手は7月2日、ツインズとの対戦に途中登板すると好投。味方打線が反撃して、今季初勝利を復帰戦で飾る。

そしてこのあとからが凄かった。開幕当初とは別人のように心身のコンディションを高めた斎藤投手は好リリーフを続け、ブルワーズは29年ぶりとなる地区優勝を果たす。地区シリーズのダイヤモンドバックス戦ではブルワーズの先発が同点に追いつかれた後に登板し、ランナーを出しながらも後続を断った。その後の試合でも好リリーフを続け、チームは地区シリーズを突破する。

リーグ優勝決定戦初戦ではメジャーリーグきっての大打者、カーディナルスのA.プーホールズと対戦、真っ向勝負のピッチングでピンチをきりぬけた。(→ユーチューブ参照)その後も6試合に登板して無失点と好投を続けた。しかしチームはリーグ優勝決定戦で敗退し、斎藤投手の2011年シーズンは終わった。試合が終わったとき、斎藤投手はベンチで涙を流した。

ブルワーズが快進撃を続けるうちに、斎藤投手の中で「ワールドシリーズで優勝して、故郷を励まし、元気づけたい」という想いが強く沸き起こってきた。優勝して故郷に凱旋するイメージが勝手に作られたのだと言う。斎藤投手は大きな使命を感じとったのだろう。迷いなく、ただただ懸命に、気持ちを込めて投げたのだ。そんな2011年のシーズンが終わった。

万感胸に迫るものがあったのだろう。斎藤投手はとめどなく涙を流した。



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